日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑫ 静岡県浜松市天竜区龍山町《忠魂碑》

カテゴリー │近代遺産日泰寺型戦争紀念碑

当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県浜松市天竜区龍山町の《忠魂碑》を取りあげます。

現在、《忠魂碑》は同町戸倉の龍山総合運動場の一角に他の戦争紀念碑4基(註1)と並んで立っています。これら5基の戦争紀念碑はもともと同町大嶺の龍山第一小学校〔平成26(2014)年3月廃校〕の校庭脇にありましたが(註2)、平成元(1989)年9月3日の集中豪雨で被災し、翌年6月に現在地へ移築されたようです(註3)

《忠魂碑》は低い錐台形の基壇に面取りした円筒形の台座を載せ、本体・笠形・砲弾形を順に重ねており、構成は標準的です。しかし、砲弾形がきわめて大きく、その直径は本体とほとんど変わりません。全長においては本体を超えています。日泰寺型戦争紀念碑のなかでも特異な形姿と言えるでしょう。

石材はすべて花崗岩で(註4)、部分的な別石の使用は認められません。題号の周囲を長方形に掘り下げたり、レリーフを施すといった加工もなく、総じて簡素な造りです。

本体正面には題号「忠魂碑」と揮毫者名「海軍大将伯爵東郷平八郎」がやや小さく刻まれています。

一方、本体背面には「明治四十五年三月」とあるのみです。

さて、龍山総合運動場に所在する5基の戦争紀念碑のうち、《太平洋戦争記念碑》を除く4基はいずれも明治45(1912)年3月の建立です。大正4(1915)年発行の『龍山村誌』にはこの4碑の建立経緯がかなり細かく記述されています。年表にまとめてみました。

明治35(1902)年4月1日龍山村振武会、発足。
明治38(1905)年10月14日日露戦争、終結(ポーツマス条約、批准)。
明治39(1906)年1月10日出征した三室今朝次郎、宮澤福次郎が帰村。以降、4月27日まで出征軍人が順次帰村。
3月18日磐田郡龍山村在郷軍人会、発足。
3月20日龍山村振武会、「臨時招魂祭擧行規定」および「凱旋軍人歡迎會擧行規定」を制定。この制定には前村長の和田佐太夫ら4名が「明治三十七八年戰役紀念碑建設委員」として名前を連ねており、すでに日露戦争に係わる紀念碑の建立計画が始動していたと見られる。
4月13日戦死者3名の臨時招魂祭および帰還軍人の歓迎会を開催。
明治40(1907)年3月22日磐田郡龍山村在郷軍人会を磐田郡在郷軍人会龍山村部会と改称。
4月30日龍山村振武会、「西南役從軍病死軍人碑」の建立を議決。
明治41(1908)年4月16日龍山村振武会、西南戦争および日清戦争の紀念碑建立を議決。これにより日露戦争に係わる紀念碑、忠魂碑と合わせて4碑の建立が正式に決まった。
明治42(1909)年12月頃この頃までに西南戦争の紀念碑、日露戦争の紀念碑と忠魂碑の題号揮毫者が山県有朋陸軍大将、乃木希典陸軍大将、東郷平八郎海軍大将に決定。なお、日清戦争紀念碑に関しては未定。
明治43(1910)年7月31日龍山村長青山善作太郎、村併合反対の対策資金436円39銭のうち各方面に237円50銭を支払った後、残金(198円89銭)を4碑の建設費に繰り入れることを提案。
12月19日帝国在郷軍人会に発足により磐田郡在郷軍人会龍山村部会を帝国在郷軍人会浜松支部龍山村分会と改称。
明治44(1911)年4月30日龍山村振武会、4碑を戸倉地区に設置すること、完成後に招魂祭を催すこと、4碑のうち着手できるものから制作を開始することなどを決定。
12月頃日清戦争紀念碑の題号揮毫者が伊東祐亨海軍大将に決定。
明治45(1912)年1月22日建碑委員会、日清戦争の紀念碑と日露戦争の忠魂碑は花崗岩、西南戦争の紀念碑と日露戦争の紀念碑は仙台石を使用すること、委員の太田鹿吉を浜松に派遣し、浜松在住の青山善一と共に石材店と交渉させることなどを決定。
2月10日建碑委員と在郷軍人会龍山村分会役員が協議。4碑の製作を浜松市紺屋町の内藤七太郎に依頼したこと、製作費は総額170円であること、この日4碑(未成品?)が戸倉に到着したことなどが報告された。また、帝国在郷軍人会龍山村分会の鈴木唯次郎(分会長)ら4名に建碑委員を嘱託した。
3月12日「議員委員幹事聯合会」が発足。これまでの建碑委員に加え、村議会、在郷軍人会龍山村分会、青年会、教育会、尚武会、婦人会、連合青年会より委員を選出、「建碑幷碑附近設備ニ關スル委員」「招魂祭ニ關スル委員」「接待ニ關スル委員」を分担。
3月14日4碑の除幕式および招魂祭の招待状を龍山村振武会長(龍山村長)青山善作太郎と帝国在郷軍人会龍山村分会長鈴木唯次郎の連名で発送。
3月15日帝国在郷軍人会龍山村分会、会長以下85名が4碑の設置工事に従事。18日に完了。
3月21日4碑の除幕式、招魂祭を挙行。

『龍山村誌』によると、最初に建立が計画されたのは日露戦争に係わる紀念碑だけだったらしく、計画が始動した時期ははっきりしませんが、日露戦争終結の5ヶ月後、つまり、明治39(1906)年3月にはすでに龍山村振武会(註5)に「明治三十七八年戰役紀念碑建設委員」が置かれています(註6)

明治41(1908)4月には日露戦争の紀念碑および忠魂碑に加え、西南戦争と日清戦争の紀念碑も建立されることが決まりました(註7)。しかし、計画はなかなか実行に移されませんでした。4碑の題号揮毫者が決まらなかったからです。

村会議員で前村長の和田佐太夫は題号揮毫者について「村長ノ手ノ届ク錢ノ掛ラヌ處」にするよう釘を刺していましたが(註8)、実際は「大物狙い」となっていたらしく、揮毫を依頼した将官から辞退の連絡が相次ぎ、一年以上回答が得られないこともあったようです(註9)。ある役場吏員は「或ル時ハ和田氏ハ來テ餘リ大ナル處ハ兎テモ六ヶ敷(むつかし)イトヒヤカサレ和田氏來レハ申請書ヲカクシタル程ナリキ」と述懐しています(註10)

明治42(1909)年12月の時点で西南戦争の紀念碑、日露戦争の紀念碑および忠魂碑に関しては題号揮毫者が決まっていました。すなわち、山県有朋陸軍大将、乃木希典陸軍大将、東郷平八郎海軍大将です。一方、日清戦争の紀念碑は未定のままでした(註11)

明治44(1911)4月、焦慮した龍山村振武会は4碑のうち着手できるものから製作していくことを決断(註12)。その8ヶ月後、日清戦争の紀念碑の題号揮毫者がようやく伊東祐亨海軍大将に決まりました(註13)

年が明けると、建立計画は急ピッチで進み、2月には4碑が龍山村に到着しています。製作は浜松市紺屋町の内藤七太郎に発注し、費用は総額170円だったようです(註14)。3月18日には設置工事が完了し(註15)、同21日、除幕式が挙行され、次いで戦没者の招魂祭が催されました(註16)。《忠魂碑》等4碑の建立には実に5年の歳月を要したことになるわけです。

以上、静岡県浜松市天竜区龍山町の《忠魂碑》について検討してきました。先に指摘したように《忠魂碑》は砲弾形が巨大化し、標準的な日泰寺型戦争紀念碑から逸脱しています。個性的ではありますが、なぜこうした造形になったのか気になるところです。他の日泰寺型戦争紀念碑を参照すれば、砲弾形はもっと小さくしたはず。あやふやな情報だけを頼りに製作したのかもしれません。

また、《忠魂碑》ほか3碑の建立経緯がかなり細かく記録されている点も珍しいと思います。特に、題号揮毫者の選定に関してはその裏側が垣間見られて興味深いですね。龍山村振武会が題号の揮毫を依頼したのは将官のなかでも全国的に有名な人物ばかりで、ずいぶん見栄を張っているように感じられます。同じ磐田郡出身の大久保春野陸軍大将に依頼がなかったのもそのあたりが理由ではないでしょうか。

【註釈】
(1)《忠魂碑》と並立している戦争紀念碑は次の4基です。
■■①《西南戦役紀念碑》〔明治45(1912)年3月/題号:山県有朋〕
■■②《明治二十七八年紀念碑》〔明治45(1912)年3月/題号:伊東祐亨〕
■■③《明治𠦃七八年戰役紀念之碑》〔明治45(1912)年3月/題号:乃木希典〕
■■④《太平洋戦争記念碑》〔昭和46(1971)年4月/題号:竹山祐太郎〕
(2)静岡県護国神社『静岡県忠魂碑等(慰霊施設)全集』(静岡県護国神社、1991年)507頁
(3)5碑の手前に置かれた《鎮魂》と号する石碑(龍山村社会福祉協議会建立)に移築の事情が刻まれています。
(4)青山善作太郎ほか『龍山村誌』(龍山村誌編纂會、1915年)、734頁
(5)龍山村振武会は「專ラ質素ヲ保チ誠實ニ軍人ヲ優遇シ一般振武ノ志氣ヲ涵養スル」ことを目的として明治35(1902)年に発足しました。事務所を村役場内に置き、会長・副会長・幹事・議員はそれぞれ村長・助役・収入役、区長、村書記・村会議員に委嘱し、龍山村に「居住又ハ寄留スル戸主ヲ會員」としており、官民一体の軍事援護団体と言えます〔註(4)同書、652頁〕。
(6)註(4)同書、703頁
(7)註(4)同書、721頁
(8)註(4)同書、721頁
(9)谷干城陸軍中将、大山巌陸軍大将、奥保鞏陸軍大将には拒まれ、桂太郎陸軍大将と大島義昌陸軍大将からは一年以上返事がなかったそうです〔註(4)同書、721頁〕。
(10)註(4)同書、722頁
(11)註(4)同書、721頁
(12)註(4)同書、723頁
(13)註(4)同書、722頁
(14)註(4)同書、724~725頁
(15)註(4)同書、610頁
(16)註(4)同書、728頁




 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑪ 静岡県磐田市大久保《紀念碑》

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当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県磐田市大久保の《紀念碑》を取りあげます。

《紀念碑》は保福寺の境内奥、墓地へ続く坂道の途中に他の戦争紀念碑3基(註1)と並んで立っています。保福寺は曹洞宗の寺院で、寛永19(1642)年の開創されました(註2)

方形の基壇に円形を台座を載せ、本体と砲弾形を重ねた標準的な構成ですが、本体に比較して砲弾形と笠形が大きく造られています。

本体正面は長方形に彫り下げ、題号「紀念碑」と揮毫者名「陸軍大将寺内正毅書」を刻んでいます。

本体の背面には建立年(「大正三年三月」)と建立者名(「帝國在郷軍人會大藤村分會」「靜岡縣磐田郡大藤村振武會」)を記した銘文があり、大正3(1914)年3月の建立であること、建立が磐田郡大藤村の帝国在郷軍人会分会と振武会による共同事業だったことがわかります。大正3年当時、寺内正毅は帝国在郷軍人会の会長だったので(註3)、その縁故で題号の揮毫を依頼したのでしょう。また、大藤村振武会の実態は不明ですが、他の町村の状況を踏まえると、出征軍人およびその家族の援助や慰労を目的とした組織ではないかと思います。


基壇正面には暗灰色の別石を嵌め込み、日露戦争(銘文では「日露戰役」)に従軍した兵士27人の氏名、階級、兵科を録しています。

以上、静岡県磐田市大久保の《紀念碑》について検討してきました。《紀念碑》は砲弾形および笠形の比重が大きいため、あまりバランスの良くない形姿となっています。

ところで、《紀念碑》と並んでいる戦争紀念碑のうち、《表忠碑》は日露戦争における戦死者3名を哀悼した板碑で、帝国在郷軍人会大藤村分会と大藤村振武会により大正2(1913)年9月に建立されました。《紀念碑》が建立されたのはそのわずか6ヶ月後なので、《表忠碑》と《紀念碑》は初めから一具として計画されたものでしょう。何らかの事情により《紀念碑》の完成が遅れたのではないかと思います。

日泰寺型と板型の戦争紀念碑を同時に建立し、日泰寺型に従軍者の顕彰、板型に戦没者の哀悼という役割を割り当てた例は磐田郡福嶋村(第6回)や小笠郡笠原村(第7回)においても認められます。憶測の域を出ませんが、こうした戦争紀念碑の扱い方は磐田郡、小笠郡といった中遠地方に特徴的なものかもしれません。


【註釈】
(1)《紀念碑》と並立している戦争紀念碑は次の3基です。
       ①《表忠碑》〔大正2(1913)年9月建立〕
       ②《表忠 故金原儀太郎故戸田清太郎之墓》〔昭和3(1928)年3月建立〕
       ③《英霊之碑》〔昭和29(1954)年12月建立〕
    なお、最も新しい《英霊之碑》が中央に位置しているのは不自然なので、その他の3基はもともと別の場所にあり、《英霊之碑》を建立する際、当地に移築されたのかもしれません。
(2)磐田郡教育會『磐田郡誌』(静岡縣磐田郡役所、1921年)、627頁
(3)帝國在鄕軍人會三十年史編纂委員会がまとめた『帝國在鄕軍人會三十年史』〔帝國在鄕軍人會本部、1944年〕によると、寺内正毅の会長在任期間は明治43(1910)年11月から大正8(1919)年11月までだったようです(附録1~2頁)。




 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑩ 静岡県浜松市南区江之島町《日露戰役紀念》碑

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当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県浜松市南区江之島町の《日露戰役紀念》碑を取りあげます。

《日露戰役紀念》碑は新羅神社の参道入口から道路を隔てた先に立っています。総高およそ2メートル、基壇を設けず、方形の台座を直接地表に置いて本体・笠形・砲弾形を重ねており、台座が小さく、本体も細長いため、ほっそりとした印象です。なお、《日露戰役紀念》碑が立つ区画には他にも3基の戦争紀念碑が並び、少し離れて五島村と浜松市の《合併記念碑》があります(註1)



笠形の正面には横書きで「日露」、本体の正面には縦書きで「戰役紀念」と刻まれています。笠形に文字を刻むのはかなり珍しい例ですが、「日露」と「戰役紀念」は続けて読むこともできますので、この戦争紀念碑の題号はひとまず《日露戰役紀念》と解釈しておきます。

本体の背面には題号の揮毫者名「五島村長松島茂三謹書」が彫り込まれています。建立年は見えませんが、松島茂三が五島村々長を務めていたのは明治41(1908)年6月~同43(1910)年3月なので(註2)、《日露戰役紀念》碑が建立されたのもこの期間になるでしょう。ただし、後述するように《日露戰役紀念》碑には磐田市西貝塚の《忠魂碑》の影響が看取されます。《忠魂碑》は明治42(1909)年7月の建立ですから、《日露戰役紀念》碑の建立時期は明治42年後半から43年初頭ではないかと思います。

本体の上部には桜花を前後左右に配置して相互にリボンでつないだ装飾が加えられています。表現は簡略ですが、磐田市西貝塚の《忠魂碑》に見られるものと同趣の装飾であり、《日露戰役紀念》碑がその影響下で成立したことを窺わせます。

砲弾形は赤錆が出ているので、鉄製でしょう。しかも、後端部に細かい線条痕が認められることから、実弾を転用したものと考えられます(註3)。全長約56センチ、直径約20センチを計りますが、これを使用した火砲は特定できませんでした。

以上、静岡県浜松市南区江之島町の《日露戰役紀念》碑について検討してきました。《日露戰役紀念》碑を特徴づけるのは第一に実弾を転用している点でしょう。小生が把握している静岡県内の日泰寺型戦争紀念碑では他に見出せません。また、建立時期がかなり古いことも疎かにできないと思います。日泰寺型戦争紀念碑としては規模が小さく、目立ちませんが、貴重な事例と言えます。


【註釈】
(1)《日露戰役紀念》碑と同じ区画に立つ戦争紀念碑は次の3基です。
       ①《忠魂碑》(寄付者名を刻した小碑が付属)〔明治39(1906)年5月建立〕
       ②《日獨戰捷記念》〔昭和3(1928)年3月建立〕
       ③《慰霊碑》〔昭和46(1971)年10月建立〕
    なお、《合併記念碑》は昭和26(1951)年3月23日の建立です。
(2)浜松市立五島公民館『太陽と潮風~五島・遠州浜(わが町文化誌)』(浜松市立五島公民館、1998年)、34頁
(3)註(2)同書における「松島重丸氏寄贈の砲弾」(229頁)に該当すると思われます。なお、松島重丸は衆議院議員(当選6回)松島廉作の長男で、工兵大尉だったようです(185頁)。




 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑨ 静岡県磐田市小島《紀念碑》

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《紀念碑》は磐田市立長野小学校の敷地内西側に他の戦争紀念碑2基(註1)と並んで立っています。3段の方形基壇に円形の台座を重ね、本体と砲弾形を据えた標準的な構成で、各部位のバランスが良く、均整の取れた形姿だと思います。

本体正面は長方形に彫り下げ、題号「紀念碑」と揮毫者名「陸軍大将正三位勲一等功二級男爵大久保春野書」を刻んでいます。

揮毫者の大久保春野は弘化3(1846)年生まれ。生家は磐田郡見附(現在の磐田市見付)に鎮座する淡海国玉神社の神官家で、幕末に遠州報国隊に参加、維新後は陸軍に入り、日露戦争における武功などにより静岡県の出身者で初めて陸軍大将に昇りました(註2)。いわば郷土の英雄であり、遠州地域には大久保春野が題号を揮毫した戦争紀念碑が数多く見られます。

本体の背面には「大正二年五月長野村建之」とあり、長野村によって大正2(1913)年5月に建立されたことがわかります。これまでの事例では振武会や奨兵会、あるいは在郷軍人会といった団体が建立を担っていましたが、《紀念碑》は行政が直接主導したようです。

基壇上段の4面には白く滑らかな石(大理石?)を嵌め込み、日露戦争(銘文中では「明治三十七八年戰役」)から帰還した出征軍人の氏名および兵科、階級を列記しています。一部に別の石材を嵌め込む手法は日泰寺型戦争紀念碑において広く行われていますが、用いられるのは専ら暗灰色の石材で、白色はかなり珍しいのではないでしょうか。

基壇上段の背面右隅に石工の名前を見つけました。銘文によると(註3)、この《紀念碑》もまた浜松の佐藤善三郎の製作です。佐藤善三郎は日泰寺型戦争紀念碑の造営をしばしば請け負っており、その活動が注目されます。

以上、静岡県磐田市小島の《紀念碑》について検討してきました。《紀念碑》における造形上の特徴として特筆すべきなのは大理石と見られる白色の石が使われている点です。もし大理石ならば、国内産かもしれません。大理石は日本でも産出します。質・量とも外国産に及びませんが、明治末期から昭和初期には洋館の建設ラッシュに伴って需要が高まり、各地で盛んに採掘されたようです(註4)。《紀念碑》は国産大理石の盛行時期に建立されていますので、取り入れられてもおかしくはないでしょう。

ともあれ、この石材により《紀念碑》の印象は典雅なものとなっており、日泰寺型戦争紀念碑としては標準的な形姿ながら独自性を発揮しているように思います。

【註釈】
(1)1基は《忠魂碑》〔大正2(1913)年5月建立〕、もう1基は《魂》〔昭和29(1954)年9月建立〕です。
(2)『官報』第7536号、1908年8月8日
(3)銘文は以下のとおりです。
   濱松市
     石工 佐藤善三郎

(4)全国石材工業会『大理石,テラゾ五十年の歩み』(全国石材工業会、1965年)、18~28頁
(0)藤森照信+大和ハウス工業総合技術研究所『近代建築そもそも講義』(新潮社、2019年)、122~128頁




 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑧ 静岡県磐田市弥藤太島《明治二十七八年明治三十七八年戰役紀念之碑》

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《戰役紀念之碑》は豊田福祉センターの構内にあり、玉石積みの基壇に方形と円形の台座を据え、本体と砲弾形を載せています。砲弾形はかなり長く、先端の尖った円柱といった様相です。なお、《戰役紀念之碑》が立つ一角には他にも戦争記念碑がいくつか並んでいます。

頂部の砲弾形は正面に題号「明治二十七八年明治三十七八年戰役紀念之碑」、右脇に揮毫者名「陸軍大将伯爵奥保鞏書」が見えます。砲弾形に題号を刻むところは日泰寺型戦争紀念碑の原作、《第一軍戦死者記念碑》に忠実です。

本体の正面は長方形に彫り込み、暗灰色の別石を嵌め、日清戦争および日露戦争に従軍した兵士の氏名、兵科、階級を録しています。また、この区画の上部には房状の花をつけた植物のレリーフが施されています。

本体の背面には《戰役紀念之碑》の建立を企画した発起人、資金を拠出した寄附人とその金額が刻まれており、末尾には「明治四十二年十月建之」とあって《戰役紀念之碑》が明治42(1909)年10月に完成したことがわかります。

さらに、台座上段の背面で《戰役紀念之碑》の造営を請け負った石工の名前を見つけました。当ブログにしばしば登場する浜松の佐藤善三郎です(註1)前回、大正元(1912)年11月に完成した袋井市山崎の《紀念碑》に佐藤善三郎が関与した可能性を指摘しましたが、明治42(1909)年10月にはすでに日泰寺型戦争紀念碑を製作していたことになります。

さて、現在《戰役紀念之碑》が立っている豊田福祉センターは昭和57(1982)年まで旧豊田町の役場でした(註2)。ここに役場が置かれたのは昭和32(1957)年なので(註3)、《戰役紀念之碑》をはじめとする戦争紀念碑はそれ以降別の場所から移築されたものと考えられます。《戰役紀念之碑》はどこにあったのでしょうか。

《戰役紀念之碑》には当初の建立地を示す直接的な銘文は見当たりません。そこで、寄附人に注目してみました。

例えば、最も高額の10円を拠出した7名1企業のうち、杉村七重郎は磐田郡池田村(現在の磐田市池田)の池田銀行で頭取を務めており〔明治16(1883)年6月現在〕(註4)、同31(1898)年6月から翌年5月までは池田村の臨時村長に就いています(註5)。また、杉村熊吉は池田村において蒸気機関を導入した大規模な精米所を経営していました(註6)。さらに、大橋半九郎は池田村の製材所、龍東材木株式会社で取締役となり(註7)、明治28(1895)年10月から同30年7月までは村長も務めています(註8)。市川松太郎も池田村の村長でした〔明治22(1889)年6月~同28年10月〕(註9)。中遠銀行池田支店が池田村に所在したことは支店名から明らかです。

このように《戰役紀念之碑》の建立にあたって高額の寄附金を拠出したのは池田村の有力者や有力企業であり、《戰役紀念之碑》の建立地は池田村ではなかったかと思います。だだ、池田村のどこにあったのかはわかりませんでした。

《戰役紀念之碑》の建立地が池田村だったとすれば、本体正面に表された植物文のレリーフは藤の花を意図したものと考えるべきでしょう。池田村の行興寺には《熊野(ゆや)の長藤》と呼ばれる藤の大樹があります。能の代表曲である『熊野』の主役、熊野御前が愛でたとも伝えられ、昭和7(1932)年7月には国の天然記念物にも指定されました(註10)。行興寺では大正時代すでに開花時期に合わせて祭典が開催されており(註11)、藤は池田村の人々にとってシンボル的な花だったのです。

以上、静岡県磐田市弥藤太島の《戰役紀念之碑》について検討してきました。《戰役紀念之碑》は静岡県内に所在する建立年の確実な日泰寺型戦争紀念碑のなかでは同市西貝塚の《忠魂碑》に次いで古く、建立に係わった人物が明かな点でも貴重です。

一方、頂部の砲弾形がもはや砲弾形とは呼べないほど長大であり、軍旗や旭日あるいは桜を表すことが多い本体正面に「村の花」とも言うべき藤を配するなど標準的な日泰寺型戦争紀念碑から外れた特徴も目立ちます。こうした造形が発起人の要望だったのか製作を請け負った佐藤善三郎の創意なのかはわかりませんが、きわめて地域性の強い作例と指摘できるでしょう。

【註釈】
(1)銘文は以下のとおりです。
       濱松石工
          佐藤善三郎
(2)豊田町誌編さん委員会『豊田町誌』通史編(豊田町、1996年)、1134頁
(3)註(2)同書、1134頁
(4)豊田町誌編さん委員会『豊田町誌』資料集Ⅳ「近現代編」上巻(豊田町、2001年)、569頁
(5)豊田町郷土を研究する会『ふるさと豊田-郷土研究資料第三集-』(改訂版)(豊田町、1977年)、393頁
(6)註(2)同書、982頁
(7)博信社『帝国商工人名録』静岡・山梨県之巻(博信社、1918年)、139頁
(8)註(4)同書、393頁
(9)註(4)同書、392~393頁
(10)文部省『指定史蹟名勝天然紀念物』(文部省、1934年)、38頁
(11)『豊田町誌』別編Ⅰ「東海道と天竜川池田渡船」〔豊田町誌編さん委員会(豊田町、1999年)、607頁)〕には大正10(1921)年の祭典のポスターが掲載されています。




 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑦ 静岡県袋井市山崎《紀念碑》

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当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県袋井市山崎の《紀念碑》を取りあげます。

袋井市山崎には昭和31(1956)年まで小笠郡笠原村の役場がありました(註1)。当時の門柱が遺っており、右奥に戦争紀念碑が並んでいます。

旧笠原村役場跡の戦争紀念碑は4基あり、中央が日泰寺型の《紀念碑》です。その右側に大正元(1912)年11月建立の《忠魂碑》、左側に昭和29(1954)年9月建立の《忠魂碑》、さらに、大正の《忠魂碑》の後方に小さな《征清凱旋紀念碑》〔明治30(1897)8月建立〕が配置されています。

日泰寺型の《紀念碑》は二段の方形基壇に円形の台座を据え、本体と砲弾形を載せています。本体に比べ、砲弾形と笠形がやや大きく、上部が重い印象です。

基壇上段の4面には暗灰色の別石を貼りつけ、日露戦争(銘文中では「明治三十七八年戰役」)から帰還した出征軍人の氏名および兵科、階級を列記しています。

本体正面には題号「紀念碑」(註2)と揮毫者名「陸軍大将正三位勲一等功一級伯爵寺内正毅書」が刻まれています(註3)。題号と揮毫者名は長方形に彫り下げた区画内にあり、一手間かけた丁寧な加工で、装飾性も備わっています。

背面にまわると、「大正元年十一月 笠原村奬兵會建之」という銘文が見えます(註4)。この銘文により《紀念碑》が大正元(1912)年11月の建立であること、造営を主導したのが笠原村奨兵会であることがわかります。笠原村奨兵会の実態は不明ですが、他の市町村の例を踏まえると、村長が会長を兼ねた官民一体の組織で、出征軍人およびその家族の援助や慰労を目的とし、村内のすべての戸主が入会していたと考えられます。

ところで、先述したとおり《紀念碑》右側の《忠魂碑》も大正元(1912)年11月の建立です。題号の揮毫者も寺内正毅なので、この2基は同時に造営されたように思います。しかし、《忠魂碑》は建立者が「帝國在郷軍人會笠原村分會」であり、表側に日清・日露戦争において戦没した軍人、裏側に日露戦争から帰還した軍人の氏名、兵科、階級が列記されています。

つまり、《紀念碑》は一般村民が帰還軍人を顕彰したものであり、対して《忠魂碑》は予備役、後備役など現役を離れた軍人(在郷軍人)が帰還軍人の顕彰と共に戦没軍人を慰霊したものと言えます。

主に一般村民から構成される笠原村奨兵会の建立した《紀念碑》において慰霊の性格が認められないのは興味深いところです。当時、彼らの関心は戦没者より帰還者に向いていたのかもしれません。

なお、裏側の銘文によると、《忠魂碑》の製作を担当したのは浜松の石工、佐藤善三郎でした(註5)。銘文はないものの、おそらく《紀念碑》もそうでしょう。以前取りあげたように、佐藤善三郎は愛知県一宮市の《忠魂碑(殉国碑)》の造営を請け負っており、浜松市中区利町の《誠忠碑》にも携わっていたと考えられますが、小笠郡でも仕事を行っていたとは驚きました。戦争紀念碑の造営に関して静岡県西部地区では有名な石工だったのではないかと思います。

【註釈】
(1)①鈴木博「笠原地区の忠魂碑」(『ふるさと笠原』第8集掲載、2003年)、4頁
(0)②鈴木博「笠原地区の忠魂碑」(『新ふるさと袋井』第23集掲載、2008年)、15頁
(2)註(1)同報告では「紀」を「記」としています(①9頁、②18頁)。
(3)題号揮毫者の寺内正毅は明治45(1912)年5月31日に従二位へ昇っており(『官報』第8684号、1912年6月1日)、《紀念碑》が完成した時にはそこに刻まれている正三位ではありませんでした。逆にいえば、寺内が題号を揮毫したのは明治45(1912)年5月30日以前となるはずです。
(4)註(1)同報告では「奬」「會」を「奨」「会」としています(①9頁、②18頁)。
(5)佐藤善三郎に関する銘文は以下のとおりです。
(0)(0濵松市紺屋
(0)(0)(0)石工 佐藤善三郎




 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑥ 静岡県磐田市福田中島《紀念碑》

カテゴリー │近代遺産日泰寺型戦争紀念碑

当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県磐田市福田中島の福田第一公園にある《紀念碑》を取りあげます(註1)

福田第一公園の一角には戦争紀念碑4基と戦死者・戦病死者に係わる品を納めた忠霊塔があり、戦争紀念碑4基のうち1基が日泰寺型の《紀念碑》です。

《紀念碑》は二段の方形基壇に扁平な円形の台座を据え、本体と砲弾形を載せています。装飾がまったく施されず、簡素なつくりです。

本体の正面には題号「紀念碑」が隷書体で刻まれていますが、揮毫者名は見当たりません。皇族や高級将校ではなく、地元の名士が揮毫した可能性もあります。

本体背面には、かなり摩耗していますが、次の銘文があり、この《紀念碑》が福島村振武会により1911(明治44)年4月23日に建立されたこと、そして、西南戦争・日清戦争・北清事変・日露戦争における勝利を紀念するものであることがわかります。

明治十年西南戰役
明治二十七八年戰役■■
■■明治四十四年四月二十三日
明治三十三年北清事變
■■■■■■■■■■福嶋村振武會建之
明治三十七八年戰役


砲弾形は本体に対比して穏当な大きさだと思います。背面側の頂部にひび割れが認められました。

基壇上段の四面には暗灰色の別石を貼りつけ、戦争ごとに従軍した兵士の氏名とその兵科、階級、勲等を彫り込んでいます。

ところで、『福田町の史跡』によると、福田第一公園の忠霊塔は1956(昭和31)年10月12日に落慶法要があり、戦争紀念碑4基も同年に「各小学校」から移築されたようです(註2)。《紀念碑》は1911(明治44)年に福島村振武会が建立したものなので、当初の建立地は福島村内の福島尋常小学校(移築時は福田町立福田小学校)となるでしょう。事実、福島尋常小学校の正門左側に建つ《紀念碑》の姿を福田小学校が刊行した『開校百年誌』で確認することができます(註3)


『広報ふくで』第6号(1956年11月25日号) 6頁


現在の福田第一公園忠霊塔と戦争紀念碑(2017年7月30日撮影)

『広報ふくで』第6号には忠霊塔の落慶法要に関する記事と写真が掲載されており、《紀念碑》も写っています(註4)。しかし、現在では木々が生い茂り、少し距離を取ると《紀念碑》は見えません。

以上、静岡県磐田市福田中島の《紀念碑》について検討してきました。《紀念碑》は全体のバランスが良く、端正な形姿で、題号の力強い筆致が目を引きます。揮毫者名もいずれ明らかにしたいと思っています。


福島村振武会《忠魂碑》〔明治44(1911)年建立〕

《紀念碑》を建立した福島村振武会はこれと共に《忠魂碑》も建立しました。《忠魂碑》は西南戦争から日露戦争までに戦死または戦病死した従軍者を録した板碑ですが、一村の一団体が複数の戦争紀念碑を同時に建立したことに驚かされます。明治時代末期、福島村はコール天(コーデュロイ)の製造で活況を呈しており(註5)、その経済力が背景にあったのかもしれません。


【註釈】
(1)福田町文化財保護審議会による『福田町の史跡』〔福田町教育委員会、2005年〕は《記念碑》と誤っています〔55頁〕。
(2)註(1)同書、56頁
(3)福田小学校開校百年誌作成委員会『開校百年誌』(福田小学校開校百年誌作成委員会、1974年)、25頁
 なお、同書には教職員一同が《紀念碑》を背景に撮影した記念写真も掲載されています〔28、38頁〕。
(4)福田町役場『広報ふくで』第6号、1956年11月25日、6頁
(5)藤田錦司『日本別珍コール天五十年史』(繊維振興協会、1954年)、34頁






 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》

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《忠魂碑》は小高い丘の上に位置し(註1)、切石積みの方形基壇に二段重ね(上が円形、下が八角形)の台座を据えつけ、本体と砲弾形を載せています。

本体の背面には日清戦争以降に戦病死した従軍者の氏名と階級が彫り込まれています。また、「昭和五年三月建之」とあり、1930(昭和5)年3月の完成であることがわかります。なお、《忠魂碑》の造営を主導したのは帝国在郷軍人会周智郡久努西村分会だったようです(註2)

本体の正面には黒色の石を嵌め込み、題号「忠魂碑」と揮毫者名「陸軍大将一戸兵衛書」を刻んでいます。1930(昭和5)年当時、一戸兵衛は帝国在郷軍人会の会長を務めていたので、そのつながりから題号の揮毫を依頼したのかもしれません。

さて、袋井市堀越の《忠魂碑》は第3回で取りあげた磐田市西貝塚の《忠魂碑》によく似ています。全体の印象はもちろん、題号を刻む部位に黒色の石を使っている点も同じです。細部を比較してみると、類似性はより明確になるでしょう。


袋井市堀越《忠魂碑》 台座

磐田市西貝塚《忠魂碑》 台座
例えば、台座は双方とも上が円形、下が八角形の二段重ねとなっており、下段の稜線に反りを付けているところまで共通しています。


袋井市堀越《忠魂碑》 本体上部正面

磐田市西貝塚《忠魂碑》 本体上部正面
本体上部の正面に表された星章と旗のレリーフも一致しています。しかし、袋井市堀越の《忠魂碑》は磐田市西貝塚の《忠魂碑》より襞が大づかみで、写実性に乏しい描写です。


袋井市堀越《忠魂碑》 本体上部側面

磐田市西貝塚《忠魂碑》 本体上部側面
こうした傾向は本体上部の側面と背面に配されたブーケ状のレリーフにも見受けられます。

以上のように袋井市堀越の《忠魂碑》は磐田市西貝塚の《忠魂碑》といくつも共通点が認められます。一方で、前者の造形が後者より硬直化していることは否めません。これらを踏まえれば、袋井市堀越の《忠魂碑》が磐田市西貝塚の《忠魂碑》に倣っていることは間違いないでしょう。

袋井市堀越は戦前まで周智郡久努西村であり、磐田市西貝塚の《忠魂碑》がかつて所在したのは磐田郡中泉町です。郡を越えて模倣されるほど磐田市西貝塚の《忠魂碑》は高名だったのかもしれませんが、ともあれ、日泰寺型戦争紀念碑には原作である《第一軍戦死者記念碑》を直接模倣したものだけでなく、それをさらに模倣したものが少なくないのではないかと思います。


【註釈】
(1)《忠魂碑》が造営された小高い丘は「千両山」(センゾヤマ)と呼ばれていたようです〔藤田民平『郷土誌(袋井市北地区旧久努西村)』(袋井市北公民館、1973年)、129頁〕。
(2)註(1)同書、129頁




 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる④ 静岡県磐田市西貝塚《戦役記念》碑

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当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。

前回は静岡県磐田市西貝塚の緑ヶ丘霊園にある2基の日泰寺型のうち、《忠魂碑》を扱いました。今回はもう1基の日泰寺型、《戦役記念》碑を取りあげます。

《戦役記念》碑は日泰寺型のなかでもかなり小さく、高さ2メートル弱。二段重ねの台座は上段・下段とも底面が正方形で、側面がノミ切り仕上げとなっています。

本体は正面に題号「戦役記念」と揮毫者名「陸軍中将柴山重一謹書」を刻み、側面から背面にかけて従軍者の階級と氏名が彫り込まれています。従軍者は戦争ごとにまとめられており、日清戦争(「日清戦役」)から第1次世界大戦(「日独戦役」)に及びます。建立年を示す銘文は確認できませんでした。頂部の砲弾形は写実的なかたちですが、本体と比較すると、やや大きすぎるかもしれません。

本体上部の前後左右には桜花を置き、それらをリボンでつないでいます。《戦役記念》碑では他に装飾がなく、かなり簡素なつくりです。

《戦役記念》碑の題号揮毫者、柴山重一は1876(明治9)年生まれ。栃木県の出身です(註1)。1896(明治29)年11月陸軍士官学校を卒業し、翌年6月に少尉任官。中将昇任は1926(大正15)年3月2日。1927(昭和2)年9月1日に予備役編入、1932(昭和7)年6月10日に召集解除となりました。35年の軍歴において歩兵第1旅団長や憲兵司令官、由良要塞司令官などを務めています(註2)

柴山重一は出身地、赴任地とも静岡県に関わりがありません。しかし、妻まさは静岡県の出身であり(註3)、そのつながりか召集解除後には袋井町(現在の袋井市袋井)に居を構えました。階級や経歴を鑑みると、静岡県に縁故がある軍関係者のなかでも柴山重一はかなり「大物」なので(註4)、題号揮毫を依頼されるのも当然あり得るかと思います。逆に考えれば、題号揮毫の依頼は柴山重一が袋井町へ転居した後になるでしょう(註5)

さて、前回述べたように緑ヶ丘霊園は1966(昭和41)年4月に開設されました(註6)。従って、《戦役記念》碑も《忠魂碑》と同じく別の場所にあったはずです。ただし、前掲の絵葉書に《戦役記念》碑は写っていないため、府八幡宮の隣接地は違います。

『磐田の石物散歩』によると、《戦役記念》碑は緑ヶ丘霊園から南へ1.5キロ、同じ西貝塚地区の十七夜観世音にありました(註7)。『磐田の石物散歩』は1993(平成5)年5月発行ですから、その頃にはまだ十七夜観世音にあったことになりますが、移築の経緯やその時期はわかりません。なお、『磐田の石物散歩』において《戦役記念》碑と共に載っている戦争紀念碑2基も緑ヶ丘霊園に移築されています。

以上、静岡県磐田市西貝塚の緑ヶ丘霊園にある《戦役記念》碑について検討してきました。《戦役記念》碑は規模が小さく、装飾も省略が目立ち、簡易化が進んでいるように見受けられます。建立年は確認できませんでしたが、題号揮毫者である柴山重一が召集解除となった1932(昭和7)年以降なのは確実でしょう。日泰寺型戦争紀念碑の制作は昭和時代に入っても継続していたようです。


【註釈】
(1)人事興信所『人事興信録』8版(人事興信所、1933年)、シ44頁
(2)外山操『陸海軍将官人事総覧』陸軍編(芙蓉書房出版、1981年)、133頁
(3)註(1)同書、シ44頁
(4)柴山重一は1942(昭和17)年3月に静岡県翼賛壮年団長、翼賛政治体制協議会静岡支部長に就任し〔静岡県『静岡県史』通史編6近現代2(静岡県、1997年)、213~215頁〕、静岡県における国家総力戦体制を指導しました。余談ですが、終戦後の1953(昭和28)年2月5日に開催された歌会始に柴山重一の和歌「いくさの日宇品港を船出せしむかしを思へば夢の如しも」が選出されています〔『静岡新聞』1953年2月5日夕刊、3面〕。
(5)柴山重一が袋井町に転居した時期はわかりませんが、交詢社の『日本紳士録』と人事興信所の『人事興信録』のいずれも1937(昭和12)年4月刊行分より袋井町在住となっています。従って、遅くとも1936(昭和11)年中までには袋井町に転居していたと思われます〔『日本紳士録』41版、静岡11頁/『人事興信録』11版、シ65頁〕。
(6)磐田市役所秘書課『'82 市勢要覧いわた』(磐田市、1982年)、66頁
(7)磐田史談会『磐田の石物散歩』(磐田史談会、1993年)、117頁




 

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》

カテゴリー │近代遺産日泰寺型戦争紀念碑

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緑ヶ丘霊園の一角には戦争紀念碑が林立しており、そのうち2基が日泰寺型です。今回検討する《忠魂碑》は碑群の右奥に位置しています。なお、前列に見える別の1基(《戦役記念碑》)については次回扱います。

《忠魂碑》は切石積みの方形基壇に二段重ねの台座を置き、本体と砲弾形を据えています。砲弾形は細長く、あまり砲弾らしく見えません。

本体の正面には別の黒い石を嵌め込み、題号「忠魂碑」と揮毫者名「陸軍中将大勲位功二級載仁親王書」(註1)を刻んでいます。本体に題号を入れている点は《第一軍戦死者記念碑》と異なりますが、日泰寺型戦争紀念碑ではこちらの方がむしろ多数派です。戦争紀念碑の題号は地元にゆかりのある将官の筆が多く、皇族の揮毫はそれに比べるとかなり少ないように思います。《忠魂碑》の建立にかける意気込みと中央との太いパイプが窺われます。



本体上部の正面には陸軍の象徴である星章と交差させた二本の旗を表します。旗は日章旗と旭日旗を意図したものでしょうか。また、左右と背面には桜花をあしらったブーケ状の装飾があり、それぞれをリボンでつないでいます。

本体背面の下方には「明治四十二年七月」「磐田郡振武會建之」という銘文があり、明治42(1909)年7月の完成であること、磐田郡振武会が建立を主導したことがわかります(註2)。従軍者や戦病死者の氏名は確認できませんでした。

台座は上が円形、下が八角形です。下段は8つの側稜に反りがあり、上昇感が加わっています。

ところで、緑ヶ丘霊園が開設されたのは1966(昭和41)年4月です(註3)。《忠魂碑》の完成は明治42(1909)年なので、当初は別のところにあり、緑ヶ丘霊園開設後に現在地へ移築されたことになります。《忠魂碑》はどこにあったのでしょうか。

1921(大正10)年刊行の『静岡縣磐田郡誌』によれば、もともと《忠魂碑》は中泉の府八幡宮境内の隣接地に造営されたようです。

此の役(日露戦争)や敵國を膺懲して韓國に於ける我が優越權を認めしめ、以て日韓兩國の保全と東洋平和の實とを擧ぐるを得たり。本郡從軍者將校六十人、下士以下二千四百七十人、現役・豫備兵は、多く第二軍に屬し、南山得利寺首山堡沙河奉天等に於いて奮戰し、後備兵は、第四軍に屬して海城を陷れ遼陽を圍めり。(中略)是に於て病歿したる將校以下、下士卒の爲に忠魂碑を中泉町縣社府八幡宮境内接續地に建設したり。書は閑院宮載仁親王殿下の染筆下賜せられたるものなり
(註4)


絵葉書「東海道中泉町 磐田郡忠魂碑」明治40(1907)年~大正7(1918)年

移築前の《忠魂碑》が写っている絵葉書も見つけました。明治40(1907)年から大正7(1918)年のあいだに発行されたもののようです(註5)。この絵葉書には《忠魂碑》を含めて5基の戦争紀念碑が確認できますが、鉾形以外の4基は緑ヶ丘霊園に現存しています。

以上、静岡県磐田市西貝塚の緑ヶ丘霊園にある《忠魂碑》について検討してきました。小生が把握している日泰寺型戦争紀念碑のうち、静岡県内に所在する完成時期の明かなものでは《忠魂碑》が最も古い例です。八角形の台座など《第一軍戦死者記念碑》の造形を比較的よく踏襲していると思います。しかし、異なるところも少なくありません。細部の装飾のほか、砲弾形が細長いことにより全体のバランスが《第一軍戦死者記念碑》から遠ざかっており、本体下部にレリーフを施さないといった簡略化も見受けられます。


【註釈】
(1)『静岡県忠魂碑等(慰霊施設)全集』(静岡県護国神社、1991年)は《忠魂碑》の題号揮毫者を「陸軍中将大勲位二級載仁親王」と記載しており、「功」を落としています(同225頁)。
(2)『静岡県忠魂碑等(慰霊施設)全集』(註1同書)は「磐田振武会」と記載しており、「郡」を落としています(同225頁)。
(3)磐田市役所秘書課『'82 市勢要覧いわた』(磐田市、1982年)、66頁
(4)磐田郡教育會『静岡縣磐田郡誌』(静岡縣磐田郡役所、1921年)、207~208頁
なお、括弧内は小生が補いました。
(5)発行時期の推定には『絵葉書で読み解く大正時代』(学習院大学史料館、2012年、彩流社、18頁)を参照しました。