日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑩ 静岡県浜松市南区江之島町《日露戰役紀念》碑

カテゴリー │日泰寺型戦争紀念碑近代遺産

当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県浜松市南区江之島町の《日露戰役紀念》碑を取りあげます。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑩ 静岡県浜松市南区江之島町《日露戰役紀念》碑
《日露戰役紀念》碑は新羅神社の参道入口から道路を隔てた先に立っています。総高およそ2メートル、基壇を設けず、方形の台座を直接地表に置いて本体・笠形・砲弾形を重ねており、台座が小さく、本体も細長いため、ほっそりとした印象です。なお、《日露戰役紀念》碑が立つ区画には他にも3基の戦争紀念碑が並び、少し離れて五島村と浜松市の《合併記念碑》があります(註1)

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑩ 静岡県浜松市南区江之島町《日露戰役紀念》碑

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑩ 静岡県浜松市南区江之島町《日露戰役紀念》碑
笠形の正面には横書きで「日露」、本体の正面には縦書きで「戰役紀念」と刻まれています。笠形に文字を刻むのはかなり珍しい例ですが、「日露」と「戰役紀念」は続けて読むこともできますので、この戦争紀念碑の題号はひとまず《日露戰役紀念》と解釈しておきます。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑩ 静岡県浜松市南区江之島町《日露戰役紀念》碑
本体の背面には題号の揮毫者名「五島村長松島茂三謹書」が彫り込まれています。建立年は見えませんが、松島茂三が五島村々長を務めていたのは明治41(1908)年6月~同43(1910)年3月なので(註2)、《日露戰役紀念》碑が建立されたのもこの期間になるでしょう。ただし、後述するように《日露戰役紀念》碑には磐田市西貝塚の《忠魂碑》の影響が看取されます。《忠魂碑》は明治42(1909)年7月の建立ですから、《日露戰役紀念》碑の建立時期は明治42年後半から43年初頭ではないかと思います。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑩ 静岡県浜松市南区江之島町《日露戰役紀念》碑
本体の上部には桜花を前後左右に配置して相互にリボンでつないだ装飾が加えられています。表現は簡略ですが、磐田市西貝塚の《忠魂碑》に見られるものと同趣の装飾であり、《日露戰役紀念》碑がその影響下で成立したことを窺わせます。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑩ 静岡県浜松市南区江之島町《日露戰役紀念》碑
砲弾形は赤錆が出ているので、鉄製でしょう。しかも、後端部に細かい線条痕が認められることから、実弾を転用したものと考えられます(註3)。全長約56センチ、直径約20センチを計りますが、これを使用した火砲は特定できませんでした。

以上、静岡県浜松市南区江之島町の《日露戰役紀念》碑について検討してきました。《日露戰役紀念》碑を特徴づけるのは第一に実弾を転用している点でしょう。小生が把握している静岡県内の日泰寺型戦争紀念碑では他に見出せません。また、建立時期がかなり古いことも疎かにできないと思います。日泰寺型戦争紀念碑としては規模が小さく、目立ちませんが、貴重な事例と言えます。


【註釈】
(1)《日露戰役紀念》碑と同じ区画に立つ戦争紀念碑は次の3基です。
       ①《忠魂碑》(寄付者名を刻した小碑が付属)〔明治39(1906)年5月建立〕
       ②《日獨戰捷記念》〔昭和3(1928)年3月建立〕
       ③《慰霊碑》〔昭和46(1971)年10月建立〕
    なお、《合併記念碑》は昭和26(1951)年3月23日の建立です。
(2)浜松市立五島公民館『太陽と潮風~五島・遠州浜(わが町文化誌)』(浜松市立五島公民館、1998年)、34頁
(3)註(2)同書における「松島重丸氏寄贈の砲弾」(229頁)に該当すると思われます。なお、松島重丸は衆議院議員(当選6回)松島廉作の長男で、工兵大尉だったようです(185頁)。



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