日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》

カテゴリー │日泰寺型戦争紀念碑近代遺産

当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県磐田市西貝塚の緑ヶ丘霊園にある《忠魂碑》を取りあげます。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》
緑ヶ丘霊園の一角には戦争紀念碑が林立しており、そのうち2基が日泰寺型です。今回検討する《忠魂碑》は碑群の右奥に位置しています。なお、前列に見える別の1基(《戦役記念碑》)については次回扱います。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》
《忠魂碑》は切石積みの方形基壇に二段重ねの台座を置き、本体と砲弾形を据えています。砲弾形は細長く、あまり砲弾らしく見えません。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》
本体の正面には別の黒い石を嵌め込み、題号「忠魂碑」と揮毫者名「陸軍中将大勲位功二級載仁親王書」(註1)を刻んでいます。本体に題号を入れている点は《第一軍戦死者記念碑》と異なりますが、日泰寺型戦争紀念碑ではこちらの方がむしろ多数派です。戦争紀念碑の題号は地元にゆかりのある将官の筆が多く、皇族の揮毫はそれに比べるとかなり少ないように思います。《忠魂碑》の建立にかける意気込みと中央との太いパイプが窺われます。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》
本体上部の正面には陸軍の象徴である星章と交差させた二本の旗を表します。旗は日章旗と旭日旗を意図したものでしょうか。また、左右と背面には桜花をあしらったブーケ状の装飾があり、それぞれをリボンでつないでいます。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》
本体背面の下方には「明治四十二年七月」「磐田郡振武會建之」という銘文があり、明治42(1909)年7月の完成であること、磐田郡振武会が建立を主導したことがわかります(註2)。従軍者や戦病死者の氏名は確認できませんでした。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》
台座は上が円形、下が八角形です。下段は8つの側稜に反りがあり、上昇感が加わっています。

ところで、緑ヶ丘霊園が開設されたのは1966(昭和41)年4月です(註3)。《忠魂碑》の完成は明治42(1909)年なので、当初は別のところにあり、緑ヶ丘霊園開設後に現在地へ移築されたことになります。《忠魂碑》はどこにあったのでしょうか。

1921(大正10)年刊行の『静岡縣磐田郡誌』によれば、もともと《忠魂碑》は中泉の府八幡宮境内の隣接地に造営されたようです。

此の役(日露戦争)や敵國を膺懲して韓國に於ける我が優越權を認めしめ、以て日韓兩國の保全と東洋平和の實とを擧ぐるを得たり。本郡從軍者將校六十人、下士以下二千四百七十人、現役・豫備兵は、多く第二軍に屬し、南山得利寺首山堡沙河奉天等に於いて奮戰し、後備兵は、第四軍に屬して海城を陷れ遼陽を圍めり。(中略)是に於て病歿したる將校以下、下士卒の爲に忠魂碑を中泉町縣社府八幡宮境内接續地に建設したり。書は閑院宮載仁親王殿下の染筆下賜せられたるものなり
(註4)

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる③ 静岡県磐田市西貝塚《忠魂碑》
絵葉書「東海道中泉町 磐田郡忠魂碑」明治40(1907)年~大正7(1918)年

移築前の《忠魂碑》が写っている絵葉書も見つけました。明治40(1907)年から大正7(1918)年のあいだに発行されたもののようです(註5)。この絵葉書には《忠魂碑》を含めて5基の戦争紀念碑が確認できますが、鉾形以外の4基は緑ヶ丘霊園に現存しています。

以上、静岡県磐田市西貝塚の緑ヶ丘霊園にある《忠魂碑》について検討してきました。小生が把握している日泰寺型戦争紀念碑のうち、静岡県内に所在する完成時期の明かなものでは《忠魂碑》が最も古い例です。八角形の台座など《第一軍戦死者記念碑》の造形を比較的よく踏襲していると思います。しかし、異なるところも少なくありません。細部の装飾のほか、砲弾形が細長いことにより全体のバランスが《第一軍戦死者記念碑》から遠ざかっており、本体下部にレリーフを施さないといった簡略化も見受けられます。


【註釈】
(1)『静岡県忠魂碑等(慰霊施設)全集』(静岡県護国神社、1991年)は《忠魂碑》の題号揮毫者を「陸軍中将大勲位二級載仁親王」と記載しており、「功」を落としています(同225頁)。
(2)『静岡県忠魂碑等(慰霊施設)全集』(註1同書)は「磐田振武会」と記載しており、「郡」を落としています(同225頁)。
(3)磐田市役所秘書課『'82 市勢要覧いわた』(磐田市、1982年)、66頁
(4)磐田郡教育會『静岡縣磐田郡誌』(静岡縣磐田郡役所、1921年)、207~208頁
なお、括弧内は小生が補いました。
(5)発行時期の推定には『絵葉書で読み解く大正時代』(学習院大学史料館、2012年、彩流社、18頁)を参照しました。



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