日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑫ 静岡県浜松市天竜区龍山町《忠魂碑》

カテゴリー │日泰寺型戦争紀念碑近代遺産

当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県浜松市天竜区龍山町の《忠魂碑》を取りあげます。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑫ 静岡県浜松市天竜区龍山町《忠魂碑》
現在、《忠魂碑》は同町戸倉の龍山総合運動場の一角に他の戦争紀念碑4基(註1)と並んで立っています。これら5基の戦争紀念碑はもともと同町大嶺の龍山第一小学校〔平成26(2014)年3月廃校〕の校庭脇にありましたが(註2)、平成元(1989)年9月3日の集中豪雨で被災し、翌年6月に現在地へ移築されたようです(註3)

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑫ 静岡県浜松市天竜区龍山町《忠魂碑》
《忠魂碑》は低い錐台形の基壇に面取りした円筒形の台座を載せ、本体・笠形・砲弾形を順に重ねており、構成は標準的です。しかし、砲弾形がきわめて大きく、その直径は本体とほとんど変わりません。全長においては本体を超えています。日泰寺型戦争紀念碑のなかでも特異な形姿と言えるでしょう。

石材はすべて花崗岩で(註4)、部分的な別石の使用は認められません。題号の周囲を長方形に掘り下げたり、レリーフを施すといった加工もなく、総じて簡素な造りです。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑫ 静岡県浜松市天竜区龍山町《忠魂碑》
本体正面には題号「忠魂碑」と揮毫者名「海軍大将伯爵東郷平八郎」がやや小さく刻まれています。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑫ 静岡県浜松市天竜区龍山町《忠魂碑》
一方、本体背面には「明治四十五年三月」とあるのみです。

さて、龍山総合運動場に所在する5基の戦争紀念碑のうち、《太平洋戦争記念碑》を除く4基はいずれも明治45(1912)年3月の建立です。大正4(1915)年発行の『龍山村誌』にはこの4碑の建立経緯がかなり細かく記述されています。年表にまとめてみました。

明治35(1902)年4月1日龍山村振武会、発足。
明治38(1905)年10月14日日露戦争、終結(ポーツマス条約、批准)。
明治39(1906)年1月10日出征した三室今朝次郎、宮澤福次郎が帰村。以降、4月27日まで出征軍人が順次帰村。
3月18日磐田郡龍山村在郷軍人会、発足。
3月20日龍山村振武会、「臨時招魂祭擧行規定」および「凱旋軍人歡迎會擧行規定」を制定。この制定には前村長の和田佐太夫ら4名が「明治三十七八年戰役紀念碑建設委員」として名前を連ねており、すでに日露戦争に係わる紀念碑の建立計画が始動していたと見られる。
4月13日戦死者3名の臨時招魂祭および帰還軍人の歓迎会を開催。
明治40(1907)年3月22日磐田郡龍山村在郷軍人会を磐田郡在郷軍人会龍山村部会と改称。
4月30日龍山村振武会、「西南役從軍病死軍人碑」の建立を議決。
明治41(1908)年4月16日龍山村振武会、西南戦争および日清戦争の紀念碑建立を議決。これにより日露戦争に係わる紀念碑、忠魂碑と合わせて4碑の建立が正式に決まった。
明治42(1909)年12月頃この頃までに西南戦争の紀念碑、日露戦争の紀念碑と忠魂碑の題号揮毫者が山県有朋陸軍大将、乃木希典陸軍大将、東郷平八郎海軍大将に決定。なお、日清戦争紀念碑に関しては未定。
明治43(1910)年7月31日龍山村長青山善作太郎、村併合反対の対策資金436円39銭のうち各方面に237円50銭を支払った後、残金(198円89銭)を4碑の建設費に繰り入れることを提案。
12月19日帝国在郷軍人会に発足により磐田郡在郷軍人会龍山村部会を帝国在郷軍人会浜松支部龍山村分会と改称。
明治44(1911)年4月30日龍山村振武会、4碑を戸倉地区に設置すること、完成後に招魂祭を催すこと、4碑のうち着手できるものから制作を開始することなどを決定。
12月頃日清戦争紀念碑の題号揮毫者が伊東祐亨海軍大将に決定。
明治45(1912)年1月22日建碑委員会、日清戦争の紀念碑と日露戦争の忠魂碑は花崗岩、西南戦争の紀念碑と日露戦争の紀念碑は仙台石を使用すること、委員の太田鹿吉を浜松に派遣し、浜松在住の青山善一と共に石材店と交渉させることなどを決定。
2月10日建碑委員と在郷軍人会龍山村分会役員が協議。4碑の製作を浜松市紺屋町の内藤七太郎に依頼したこと、製作費は総額170円であること、この日4碑(未成品?)が戸倉に到着したことなどが報告された。また、帝国在郷軍人会龍山村分会の鈴木唯次郎(分会長)ら4名に建碑委員を嘱託した。
3月12日「議員委員幹事聯合会」が発足。これまでの建碑委員に加え、村議会、在郷軍人会龍山村分会、青年会、教育会、尚武会、婦人会、連合青年会より委員を選出、「建碑幷碑附近設備ニ關スル委員」「招魂祭ニ關スル委員」「接待ニ關スル委員」を分担。
3月14日4碑の除幕式および招魂祭の招待状を龍山村振武会長(龍山村長)青山善作太郎と帝国在郷軍人会龍山村分会長鈴木唯次郎の連名で発送。
3月15日帝国在郷軍人会龍山村分会、会長以下85名が4碑の設置工事に従事。18日に完了。
3月21日4碑の除幕式、招魂祭を挙行。

『龍山村誌』によると、最初に建立が計画されたのは日露戦争に係わる紀念碑だけだったらしく、計画が始動した時期ははっきりしませんが、日露戦争終結の5ヶ月後、つまり、明治39(1906)年3月にはすでに龍山村振武会(註5)に「明治三十七八年戰役紀念碑建設委員」が置かれています(註6)

明治41(1908)4月には日露戦争の紀念碑および忠魂碑に加え、西南戦争と日清戦争の紀念碑も建立されることが決まりました(註7)。しかし、計画はなかなか実行に移されませんでした。4碑の題号揮毫者が決まらなかったからです。

村会議員で前村長の和田佐太夫は題号揮毫者について「村長ノ手ノ届ク錢ノ掛ラヌ處」にするよう釘を刺していましたが(註8)、実際は「大物狙い」となっていたらしく、揮毫を依頼した将官から辞退の連絡が相次ぎ、一年以上回答が得られないこともあったようです(註9)。ある役場吏員は「或ル時ハ和田氏ハ來テ餘リ大ナル處ハ兎テモ六ヶ敷(むつかし)イトヒヤカサレ和田氏來レハ申請書ヲカクシタル程ナリキ」と述懐しています(註10)

明治42(1909)年12月の時点で西南戦争の紀念碑、日露戦争の紀念碑および忠魂碑に関しては題号揮毫者が決まっていました。すなわち、山県有朋陸軍大将、乃木希典陸軍大将、東郷平八郎海軍大将です。一方、日清戦争の紀念碑は未定のままでした(註11)

明治44(1911)4月、焦慮した龍山村振武会は4碑のうち着手できるものから製作していくことを決断(註12)。その8ヶ月後、日清戦争の紀念碑の題号揮毫者がようやく伊東祐亨海軍大将に決まりました(註13)

年が明けると、建立計画は急ピッチで進み、2月には4碑が龍山村に到着しています。製作は浜松市紺屋町の内藤七太郎に発注し、費用は総額170円だったようです(註14)。3月18日には設置工事が完了し(註15)、同21日、除幕式が挙行され、次いで戦没者の招魂祭が催されました(註16)。《忠魂碑》等4碑の建立には実に5年の歳月を要したことになるわけです。

以上、静岡県浜松市天竜区龍山町の《忠魂碑》について検討してきました。先に指摘したように《忠魂碑》は砲弾形が巨大化し、標準的な日泰寺型戦争紀念碑から逸脱しています。個性的ではありますが、なぜこうした造形になったのか気になるところです。他の日泰寺型戦争紀念碑を参照すれば、砲弾形はもっと小さくしたはず。あやふやな情報だけを頼りに製作したのかもしれません。

また、《忠魂碑》ほか3碑の建立経緯がかなり細かく記録されている点も珍しいと思います。特に、題号揮毫者の選定に関してはその裏側が垣間見られて興味深いですね。龍山村振武会が題号の揮毫を依頼したのは将官のなかでも全国的に有名な人物ばかりで、ずいぶん見栄を張っているように感じられます。同じ磐田郡出身の大久保春野陸軍大将に依頼がなかったのもそのあたりが理由ではないでしょうか。

【註釈】
(1)《忠魂碑》と並立している戦争紀念碑は次の4基です。
■■①《西南戦役紀念碑》〔明治45(1912)年3月/題号:山県有朋〕
■■②《明治二十七八年紀念碑》〔明治45(1912)年3月/題号:伊東祐亨〕
■■③《明治𠦃七八年戰役紀念之碑》〔明治45(1912)年3月/題号:乃木希典〕
■■④《太平洋戦争記念碑》〔昭和46(1971)年4月/題号:竹山祐太郎〕
(2)静岡県護国神社『静岡県忠魂碑等(慰霊施設)全集』(静岡県護国神社、1991年)507頁
(3)5碑の手前に置かれた《鎮魂》と号する石碑(龍山村社会福祉協議会建立)に移築の事情が刻まれています。
(4)青山善作太郎ほか『龍山村誌』(龍山村誌編纂會、1915年)、734頁
(5)龍山村振武会は「專ラ質素ヲ保チ誠實ニ軍人ヲ優遇シ一般振武ノ志氣ヲ涵養スル」ことを目的として明治35(1902)年に発足しました。事務所を村役場内に置き、会長・副会長・幹事・議員はそれぞれ村長・助役・収入役、区長、村書記・村会議員に委嘱し、龍山村に「居住又ハ寄留スル戸主ヲ會員」としており、官民一体の軍事援護団体と言えます〔註(4)同書、652頁〕。
(6)註(4)同書、703頁
(7)註(4)同書、721頁
(8)註(4)同書、721頁
(9)谷干城陸軍中将、大山巌陸軍大将、奥保鞏陸軍大将には拒まれ、桂太郎陸軍大将と大島義昌陸軍大将からは一年以上返事がなかったそうです〔註(4)同書、721頁〕。
(10)註(4)同書、722頁
(11)註(4)同書、721頁
(12)註(4)同書、723頁
(13)註(4)同書、722頁
(14)註(4)同書、724~725頁
(15)註(4)同書、610頁
(16)註(4)同書、728頁



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