日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》

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当ブログでは愛知県名古屋市日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその影響下で成立したと思しい戦争紀念碑を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し、事例の収集に努めると共に、《第一軍戦死者記念碑》の造形が後続の戦争紀念碑にどう継承されていったのかを検討しています。今回は静岡県袋井市堀越の《忠魂碑》を取りあげます。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
《忠魂碑》は小高い丘の上に位置し(註1)、切石積みの方形基壇に二段重ね(上が円形、下が八角形)の台座を据えつけ、本体と砲弾形を載せています。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
本体の背面には日清戦争以降に戦病死した従軍者の氏名と階級が彫り込まれています。また、「昭和五年三月建之」とあり、1930(昭和5)年3月の完成であることがわかります。なお、《忠魂碑》の造営を主導したのは帝国在郷軍人会周智郡久努西村分会だったようです(註2)

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
本体の正面には黒色の石を嵌め込み、題号「忠魂碑」と揮毫者名「陸軍大将一戸兵衛書」を刻んでいます。1930(昭和5)年当時、一戸兵衛は帝国在郷軍人会の会長を務めていたので、そのつながりから題号の揮毫を依頼したのかもしれません。

さて、袋井市堀越の《忠魂碑》は第3回で取りあげた磐田市西貝塚の《忠魂碑》によく似ています。全体の印象はもちろん、題号を刻む部位に黒色の石を使っている点も同じです。細部を比較してみると、類似性はより明確になるでしょう。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
袋井市堀越《忠魂碑》 台座
日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
磐田市西貝塚《忠魂碑》 台座
例えば、台座は双方とも上が円形、下が八角形の二段重ねとなっており、下段の稜線に反りを付けているところまで共通しています。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
袋井市堀越《忠魂碑》 本体上部正面
日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
磐田市西貝塚《忠魂碑》 本体上部正面
本体上部の正面に表された星章と旗のレリーフも一致しています。しかし、袋井市堀越の《忠魂碑》は磐田市西貝塚の《忠魂碑》より襞が大づかみで、写実性に乏しい描写です。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
袋井市堀越《忠魂碑》 本体上部側面
日泰寺型戦争紀念碑をめぐる⑤ 静岡県袋井市堀越《忠魂碑》
磐田市西貝塚《忠魂碑》 本体上部側面
こうした傾向は本体上部の側面と背面に配されたブーケ状のレリーフにも見受けられます。

以上のように袋井市堀越の《忠魂碑》は磐田市西貝塚の《忠魂碑》といくつも共通点が認められます。一方で、前者の造形が後者より硬直化していることは否めません。これらを踏まえれば、袋井市堀越の《忠魂碑》が磐田市西貝塚の《忠魂碑》に倣っていることは間違いないでしょう。

袋井市堀越は戦前まで周智郡久努西村であり、磐田市西貝塚の《忠魂碑》がかつて所在したのは磐田郡中泉町です。郡を越えて模倣されるほど磐田市西貝塚の《忠魂碑》は高名だったのかもしれませんが、ともあれ、日泰寺型戦争紀念碑には原作である《第一軍戦死者記念碑》を直接模倣したものだけでなく、それをさらに模倣したものが少なくないのではないかと思います。


【註釈】
(1)《忠魂碑》が造営された小高い丘は「千両山」(センゾヤマ)と呼ばれていたようです〔藤田民平『郷土誌(袋井市北地区旧久努西村)』(袋井市北公民館、1973年)、129頁〕。
(2)註(1)同書、129頁



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