五社公園の誠忠碑(13)

カテゴリー │誠忠碑近代遺産

浜松市中区利町の五社公園にある戦争紀念碑、誠忠碑。当ブログでは誠忠碑について考察しています。今回は誠忠碑の影響を受けた戦争紀念碑を紹介します。


五社公園の誠忠碑(13)
殉国碑(愛知県一宮市)

愛知県一宮市の大宮公園には「殉国碑」と号する戦争紀念碑が建っています。この殉国碑は本体こそ筒形ですが、基壇は框を敷き、天板を二段重ねた円形で、誠忠碑によく似ています。


五社公園の誠忠碑(13)
(左)誠忠碑 /(右)殉国碑

基壇下部をブロック状に突出させ、逆持ち送り形の控え壁を据え付けている点も共通しており、誠忠碑と殉国碑の関連性を窺わせます。

大宮公園の殉国碑はかつて旧真清公園(現在の裁判所)にあり、昭和30年代に現在地へ移築されたそうです。そこで、戦前に刊行された一宮市関連の資料を調べるうち、大正13(1924)年に飯田吉之助が出した『一宮市史』の巻之下に興味深い記事を見つけました。やや長くなりますが、以下に引用します。

明治三十七、八年日露戰役に際し吾が一宮町から出征せる軍人中名譽の戰病死を遂げたるものが四十二名もあつた。而して是等忠死者の英靈を祀るべき記念碑の建設に就いては(中略)種々たる支障に遮られて容易に實現の運びに至らなかつた。(中略)世は大正八年の新年を迎ふると同時に新任の一宮町長日野常太郎氏は(中略)同年二月二十六日の一宮町會に該記念碑建設の件を提案して無事に可決を見、一方其建設費は總て町民寄附金に俟つ事とした。續いて同年七月四日の町會に於て忠魂碑建設委員設置規程を議決し、右建設位置は眞淸公園内南方空地を選定する事に決した〔同時に記念碑を「忠魂碑」と命名する事に決した。〕。(中略)於爰乎、右建設委員等は町當局と共に各地の狀況を視察考𥨶して漸く其成案を得、次いで大正十年四月十八日斯業に經驗深き濱松市石材商佐藤組佐藤善三郎と工事請負契約を結び、同年五月十日から工事に着手せしむる一面地藏寺境内にある西南役及び眞淸田神社前にある日淸役兩記念碑をも右地域内へ移轉改築する事とした。斯くして約半歳を經たる同年十月十日を以て目出度竣功を告げ、巍然たる忠魂碑は一宮市南郊眞淸公園内の一廓に其巨軀を表現するに到つたのである。(註1)

記事によると、移築前の殉国碑は「忠魂碑」と号し、大正10(1921)年5月に着工、同年10月に竣工しています。注目すべきは建設工事を請け負ったのが「濱松市石材商佐藤組佐藤善三郎」だったという点です。


五社公園の誠忠碑(13)
心造寺石標(静岡県浜松市中区紺屋町)

佐藤善三郎が営む石材商佐藤組は現在の浜松市中区紺屋町にありました。町内の心造寺には佐藤善三郎の名前を刻んだ石標が遺っています。紺屋町は誠忠碑が建立された利町に隣接しており、当然、佐藤善三郎も浜松石材組合の一員として誠忠碑の建設工事に参加していたはずです。佐藤善三郎が一宮市の忠魂碑に誠忠碑の意匠を導入したことはまず間違いないでしょう。

むしろ、地元の石材商ではなく、佐藤善三郎に白羽の矢が立ったのはそれがねらいだったと思います。一宮市の忠魂碑建設委員は計画立案にあたって「各地の狀況を視察考𥨶」したらしく、誠忠碑の情報を入手していた可能性があります。もしかしたら視察に訪れていたかもしれません。彼らは誠忠碑に強く惹かれ、その意匠を取り入れるべく佐藤善三郎と工事請負契約を交わしたのではないでしょうか。


五社公園の誠忠碑(13)
絵葉書「尾張一宮市名所 忠魂碑」大正末~昭和初期頃 部分

移築前の殉国碑の姿は先に引用した『一宮市史』のほか戦前に発行された絵葉書でも確認することができます。当時、頂部には鳩ではなく、砲弾形が置かれていました。また、現在は本体正面に題号を刻んだ黒色の石を嵌め込んでいますが、もともと題号は頂部の砲弾形に陽刻され、本体正面には観音開きの扉が設けられていました。こうした改変はおそらく移築時に行われたものでしょう。移築、そして、砲弾形の撤去と鳩の像の設置 ── 誠忠碑と殉国碑は奇しくも同じ軌跡をたどることになったのです。

次回(第14回)は誠忠碑の将来について展望します。

【註釈】
(1)飯田吉之助『一宮市史』巻之下(一の宮新聞社、1924年)、277~278頁
    なお、飯田氏は「記念碑」と表記しています。また、下線は小生が加えました。



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