日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》

カテゴリー │日泰寺型戦争紀念碑近代遺産

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
愛知県名古屋市にある日泰寺の境内には《第一軍戦死者記念碑》と号する戦争紀念碑(註1)が屹立しています。総高は約20メートル、八角形を呈した二段の台座に円筒形の本体を据え、頂部に砲弾形を載せており、本体と砲弾形は銅鋳造製、基壇は石造です。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
本体の正面には日清戦争に従軍し、戦死した第一軍の将兵に対する表彰文が陽鋳されています。表彰文は第一軍司令官で陸軍大将の野津道貫が撰述し、同参謀長陸軍少将の小川又次が揮毫しました。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
表彰文の上部には横たえた旗(軍旗?)を表し、中央に金鵄勲章を置きます。金鵄勲章は軍人・軍属に贈られる勲章で、明治23(1890)年の制定。神武天皇が大和国で長髄彦の軍勢と戦った際、金色のトビ(鵄)が弓の先にとまり、その光で目の眩んだ敵軍に勝利したという神話に基づきます。従って、金鵄勲章をつかむように配された猛禽類は鵄でしょう。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
本体の下部には帯状の区画が設けられており、正面側は桜と菊のレリーフとなっています。枝の切り口まで再現され、驚くほど写実的です。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
背面にまわると、教会の窓枠を思わせる区画が三つあり、その中に戦死者の名前が記されています。戦死者は上段ほど階級が高く、名前も大きくなっており、階級によって扱いが異なっていました。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
本体下部の背面側には小銃、サーベル、背嚢、双眼鏡、ラッパといった兵士の装備品が表されています。スコップやツルハシが描かれているのは塹壕の構築に使うからでしょうか。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
また、ここには《第一軍戦死者記念碑》の製作に係わる銘文もあり、「東京砲兵工廠𨮾造/圖按陸軍技手松本義德/模型彫刻大熊氏廣/明治三十三年六月竣工」と見えます。銘文によれば、《第一軍戦死者記念碑》は明治33(1900)年6月に竣工したことになりますが、竣工式が挙行されたのは3年後の明治36(1903)年5月5日でした(註2)。なお、竣工時の《第一軍戦死者記念碑》は広小路通と武平通の交差点に建っており(註3)、大正9(1920)年に現在地(日泰寺境内)へ移築されました。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
頂部の砲弾形にはこの戦争紀念碑の題号「第一軍戰死者記念𥓓」が陽鋳されています。揮毫者は併記されていません。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
台座の初段上面には七糎野砲と七糎山砲があわせて24門立てられています。いずれも実際に使われていたものらしく(註4)、廃棄品が柵に転用されたかと思います。

このように《第一軍戦死者記念碑》はきわめて特徴的な造形ですが、先行作品の存在が指摘されています(註5)。すなわち、今も靖国神社参道にある《大村益次郎像》です。

日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
大村益次郎像
絵葉書「(東京名所)靖國神社前大村銅像」明治40年~大正7年頃

《大村益次郎像》の台座と《第一軍戦死者記念碑》の本体は共に円筒形で、細部の形状や銘文の書式もよく似ています。《大村益次郎像》の完成は明治26(1893)年。原型の製作者は先述の大熊氏広です。《大村益次郎像》と《第一軍戦死者記念碑》は原型の製作者が同じなのですから、類似しているのも当然でしょう。ただ、《大村益次郎像》の中心はあくまでも頂部に立つ大村益次郎の肖像彫刻であり、《第一軍戦死者記念碑》と類似している部位は台座にすぎません。造形は類似していても役割が異なっている点に興味を覚えます。

《第一軍戦死者記念碑》の造形は現代の私たちが見ても印象深いものですが、当時の人々に残した印象は遥かに強烈だったと思います。それを物語るように、愛知県内はもちろん、近隣の静岡県や岐阜県でも《第一軍戦死者記念碑》に倣うと思しい戦争紀念碑がいくつも造立されました。当ブログでは日泰寺の《第一軍戦死者記念碑》とその模作を「日泰寺型戦争紀念碑」と総称し(註6)、各地の例を紹介していくつもりです。


【註釈】

(1)当ブログでは「紀念碑」という表記を基本としていますが、題号についてはそのまま表記します。
(2)西尾林太郎「碑・玩具・版画に表現され、記録された日清戦争-新たな教材と資料を求めて-」 (『愛知淑徳大学現代社会研究科研究報告』第1号所収、2006年)77頁〕。
(3)
 日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
上掲の写真(絵葉書「(名古屋名所)紀念碑附近」明治40年~大正7年頃)は名古屋市役所(当時)の屋舎から撮影されたものと思われます。《第一軍戦死者記念碑》の左奥に見えるのが愛知県庁と愛知県会議事堂(当時)です。
(4)伊藤厚史『学芸員と歩く愛知・名古屋の戦争遺跡』(六一書房、2016年)、20頁
(5)註(2)同論文、76~77頁

(6)明治36(1903)年9月、広島城址内の西練兵場にもう一つ《第一軍戦死者記念碑》が完成しました。日清戦争時の第一軍は名古屋の第三師団と広島の第五師団から構成されていたからです。
 日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
上掲の写真(絵葉書「(廣島名勝)戰捷記念碑」昭和10年頃)のように名古屋と広島の《第一軍戦死者記念碑》はほぼ同形だったので、「日泰寺型戦争紀念碑」という総称は適切でないかもしれません。しかし、広島の《第一軍戦死者記念碑》は太平洋戦争中の金属供出で撤去され、現存していないため、当ブログではひとまず「日泰寺型戦争紀念碑」という総称を用いることにします。


同じカテゴリー(日泰寺型戦争紀念碑)の記事

 
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。

削除
日泰寺型戦争紀念碑をめぐる① 愛知県名古屋市日泰寺《第一軍戦死者記念碑》
    コメント(0)