五社公園の誠忠碑(7)

カテゴリー │誠忠碑近代遺産

浜松市中区利町の五社公園にある戦争紀念碑、誠忠碑。当ブログでは誠忠碑について考察しています。今回(第7回)は鳩の像の作者、松浦伸知を取り上げます。

第1回で述べたように、誠忠碑の鳩の像には「1960 松浦伸知作」と刻まれており、昭和35(1960)年に松浦伸知が制作したものであることがわかります。松浦伸知は浜松を拠点に活動していた造形作家で、新象作家協会という美術団体に参加していました。新象作家協会のホームページによると、昭和44(1969)年に亡くなったようです(註1)。現在までのところ、松浦伸知の詳しい経歴は把握できていませんが、思わぬところに作品が遺っていました。

平成29(2017)年3月26日付の『中日新聞』は、この日浜松市立元城小学校と北小学校で閉校式が行われることを報じ、両校の卒業生にインタビューした記事を掲載しています。記事に松浦伸知の名前を見つけました。元城小学校の校庭に松浦伸知が制作、寄贈した遊具があるというのです。

 元城小のグランドにそびえるコンクリート製の遊具は「貝殻すべり台」「うさぎの耳」など、人によって呼び名が異なる。本当の名前は「白いジャングル」。半世紀以上、時に滑り台として、時にかくれんぼの逃げ場として、活躍した。
 元城小児童なら一度は滑ったことのある遊具で、みんなのお尻の重さを知り尽くしている。「俺も子どもも孫も滑った」と、あるOBは言う。卒業アルバムやクラス写真、同窓会でも定番の撮影スポットだ。
 1961年度の卒業記念に、現代美術家の故松浦伸知氏が、アーカンザス・オリーブの芽生えを造形化し、寄贈。子どもたちへの愛や希望、崇高な教育理念が込められている。
 記念品の保存活動を行う鈴木愛彦さん(54)は、卒業生にとって忘れられない思い出深い遊具だと強調。「若い世代が母校を振り返る時のシンボルなので残していきたい。無くしてしまうのは惜しい」と訴える
(註2)

通常、小学校の校庭に部外者が立ち入りことはできませんが、当日は閉校式に続いて記念イベントがあり、校庭が開放されていたので、幸運にも松浦伸知作の《白いジャングル》を実見することができました。

五社公園の誠忠碑(7)
《白いジャングル》は校庭南縁、体育館の脇に位置していました。高さ2メートル弱、コンクリート製の本体は植物をモチーフにした有機的なデザインです。頂部に石榴を彷彿とさせる装飾を置き、うねるようなスロープを複雑に組み合わせ、これに大きく湾曲する鉄棒を加えています。工夫次第で様々な遊び方ができそうです。

五社公園の誠忠碑(7)
下辺部にはプレートが嵌め込まれていました。「HDSS デザインスカルプチア集団同人 Name 松浦伸知」と読めます。「デザインスカルプチア集団」は未詳。なお、プレートはもう一枚あったようですが、既に取り外され、痕跡しか確認できません。

五社公園の誠忠碑(7)
ここで誠忠碑の鳩の像に立ち返ってみましょう。翼や尾羽は大胆に抽象化していますが、頭部の肉どりには確かな写実力が窺われます。一方、鳩や台座には穴が空いており、台座はともかく、鳩のものは唐突で、特別な意味があるように思えます。鳩の像の穴が何を象徴しているのか、松浦伸知が存命ならば、尋ねてみたかったですね。

戦後、砲弾形を鳩の像に取り替えて「宗旨替え」を行った戦争紀念碑は他にもあります(註3)。誠忠碑の場合、それが松浦伸知の発案だったのかどうかはわかりません。ただ、両翼を広げた鳩の像を柱頭に置いたことで、あたかも蓋を被せたようなかたちになり、かつての天を衝くような上昇感が失われてしまいました。砲弾形の復元など許されるはずもなかったでしょうが、造形面に関しては旧姿の方が優れていると思います。

松浦伸知についても引き続き調べています。何か情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、ぜひご教示ください。

次回(第8回)は誠忠碑の意匠に注目します。


【註釈】
(1)http://www.shinshoten.com/history/history_12 2018年6月7日確認
(2)『中日新聞』(浜松・遠州版)2017年3月26日号 14面
(3)例えば、愛知県尾張一宮市大宮公園の殉国碑がそうした戦争紀念碑の一つです。
  この殉国碑についてはあらためて取り上げます。



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